12月21日(木)2006年 | 大船渡港 県営臨港線跡 |
10月30日(月)2006年 | 若柳営林軌道 2 |
10月30日(月)2006年 | 若柳営林軌道 |
08月23日(水)2006年 | 第二盛街道踏切 |
08月18日(金)2006年 | 岩手軽便鉄道岩手上郷駅跡 |
08月17日(木)2006年 | 東北本線雫石川橋梁橋脚跡 |
08月06日(日)2006年 | matrox_driver-x86_32-4.4.0 |
08月04日(金)2006年 | 遠野盆地の雲海 |
08月03日(木)2006年 | 猫淵神社 |
07月09日(日)2006年 | 旧中島飛行機の極秘地下工場跡 |
06月30日(金)2006年 | portsのtamago |
06月24日(土)2006年 | 釜石鉱山線大橋駅跡 |
06月21日(水)2006年 | 吉田初三郎の鳥瞰図 |
06月12日(月)2006年 | 釜石街道踏切 |
06月04日(日)2006年 | 志戸平温泉 遊楽園跡 |
05月24日(水)2006年 | 東北本線旧線 厨川〜渋民 |
05月16日(火)2006年 | 仙人峠旧道 大橋側 |
04月24日(月)2006年 | 旧国道砂利置場 |
04月16日(日)2006年 | 橋場線跡 |
03月31日(金)2006年 | 岩根橋発電所橋台跡 |
03月24日(金)2006年 | 岩手軽便鉄道北上川橋梁(仮称)跡 |
03月07日(火)2006年 | 国道397号盛街道点描 |
02月19日(日)2006年 | 遠野駅 |
02月02日(木)2006年 | X.Org6.9.0 with mga_halその2 |
01月28日(土)2006年 | X.Org6.9.0 with mga_hal |
01月15日(日)2006年 | 松島 元禄潜穴穴口 |
まずは分岐点、踏切の辺り。道路は当時から有ったようなので左のコンテナの置いてる辺りが廃線跡か?
そこから魚市場方向に振り返って。向こうの民家の辺りを見るとやはり道路との間に空き地があります。
県道との交差点の辺り。やはり道路右側は空き地になってます。廃線は向かいの路地ではなく車が止まってる空き地ですね。右にカーブしていきます。
そこから市場方向。トラックが居座っています(w。そこで作業(製材所?)してる人もいるので迂回します。特に建物も立ってはいない様です。
そこを振り返って。海側には公園が出来ています。そこを入っていきます。
む、橋が残ってる?
まんまガーター橋が残っていました。最後に塗直したのが1976年。この線路自体は何時まであったのだろう?
両側の人道橋?も当時のものでしょうか。橋の向こうは工場の敷地になってる様です。
迂回してその工場方向。振り返って市場方向。細い路地になって続きます。
魚市場の前。右に少し写ってる建物はトイレですが、こことトラックの止まってる部分は路面にも区画が見えます。この部分が市場の駅だったのでしょうか。
ぐぐるマップを見ると市場の前に確かに道路でないパーティションが存在します。
これで若柳営林軌道は渋民沢にあった鉱山でも利用されていたということの裏がとれた様な気はしますが、渋民沢部分は暫くは勾配の緩い道が続くものの特に軌道があったような痕跡は見つけられませんでした。
GPSデータその1 GPSデータその2
赤線は実際のGPS軌跡。青線は辿れなかった(らなかった)部分です。
水沢駅の南側、貯木場があったのはこのあたりと思われます。
そこからさらに南西部は小高い丘になっており、暫くは国道と並走してから丘の南に巻いて行った様です。
国道と分かれる辺り、現在の道路の入口。いきなり急坂です(笑。
そこから北側を眺めます。道路左端の築提は水路なのですが、それが怪しいといえば怪しい。
ガス局を左手に眺めながら進みます。森林管理署南の交差点。さらに細い路地へ入ります。
川を渡っていた部分。痕跡は無し。
暫く住宅地を通り田園地帯に抜け、東北自動車道を潜った辺り。
さらに進みます。多少築提状になってる様な感じです。
この後、一部跡が辿れない部分になります。
迂回して軌道跡に復帰。
また暫く進むと辿れない部分になります。
ここら辺はちょっと国交省の航空写真を見てみましょう。
さきほどの画像がA地点。自動車でも侵入できそうですが、その先は民家の庭の様ですので遠慮しときましょう(笑。
B地点から振り返って。
ここで余談ですが道標がありました。秋田へ抜ける仙北街道って現国道筋とも違ってたんだ。
そこから集落をバイパスする道が出来ています。このバイパスが軌道跡を飲み込んでると思われます。
C地点。車がたくさん止まってる家の裏手、赤い屋根の家の前を通っていたのか。
D地点。この家の敷地が怪しい。聞いてみた所、ちょうど裏の家(本家と言っていた)との堺を通っていたとの事。若干カーブしている様にも見えます。そこから振り返って。小屋の辺りからだったかしら、との事。
E地点からその家の裏側。手前の畔道が軌道跡になると思われます。
この後は一直線に進みますが、一ヶ所クランク状にカーブしている所がありました。
そして若柳中学校の敷地に入り一旦途切れますが、この後は馬留まで国道と並走する事になります。
ちなみに第三盛街道踏切。その手前、軽便鉄道の軌道跡と思われる小路。この辺りに駅もあったのでしょうか。
う〜んと思いながら国交省の空中写真を眺めていると…ハイ、見えてきましたね(笑。
なぞってみました。
国道から駅のあったと思われるあたり。車の止まっている段が軌道面でその向こうに駅舎があったのでしょうか。さらに向こう、国道283号沿いには農協や郵便局など公共機関が多いので、やはり軌道の北側に駅舎があったのだと思われます。と言いますか、軽鉄の駅に合わせて公共機関が集まってきたのでしょう。
そこから反対側現駅方向。右の道路よりは左の家並みが軌道跡だったくさい。
蛇足ですが、古くからの上郷の中心地はちょっと東にはずれた森ノ下という所。現在は現駅の付近の国道沿いに学校や福祉センター、それにコンビニ(wが集まっているようです。だんだん西に移って来ています(笑。
さっそく見えてきました。上下線の中間にありますが、微妙に現線とは平行では無い様です。
単線時代、昭和26年に防災費にて上流12mの位置に改築された様です。それが画像右側の下り線。その後昭和38年に上り線側が線増架設された様です。
手前の橋脚に近付いてみると真ん中が煉瓦で両端が石積みのハイブリッド(w
もう一つ向うの橋脚を見ると木枠やらコンクリートで護岸されていた様な跡が見て取れます。
なにげに通過した列車を撮ったら110系?
釜石線からの直通列車でしょうか。
コンソールに戻ってみると、X起動時に色々なエラーが出ていました。このエラーを見て最近のuimの不具合も解決(汗。
Adobe(Acrobat)Readerも7.0.8にupgradeしてからpluginが効かなくなっていましたが、案の定エラーがでています。
しかしこちらは私には解決不可能です_| ̄|○
んでも、いや〜やっぱりコンソールって良いですね(笑。
高清水の展望台から正面、六角牛山を望む。暫く眺めていると雲のうねりが波の様です。
右手を見ると風が綾織の方から吹き込んでいるのがわかります。
とらねこさんのブログの他にも、そのネタ元の大和魂さんのブログやkiriさんのブログが詳しいです。
まずは住田町合地沢の猫淵神社へ行ってみます。
舗装も途切れて橋をわたり神社のちょっと手前、ここには7月中に行ったのですが、ちょっとした渡渉状態(笑。
その向こうにありました。確かに"猫淵神社"です。
中には猫の絵の描かれた絵馬が並べられていました。壁には奉納と書かれた猫の絵。素朴でいいですねえ。
他にも猫の写真等が奉納されており、実質上猫供養の場と言った感じでしょうか。
さて、次に陸前高田市矢作町の方に行ってみます。
位置的に住田町の猫淵神社から一山越えた所になります。
kiriさんのブログにもある陸前高田市の広報の記事。
猫淵は県道34号をちょっと入った所にある様です。この県道は近年大きく改修されていますが残された旧道部分に猫渕橋が残っています。
昭和5年完成のPC橋。この辺りは川が大きく蛇行しているため旧道自体も残されましたが、この辺が猫淵だったのでしょうか。
猫淵神社は民家の裏手の山にあります。りっぱな鳥居。奥に見えるのは"日月宮"。しかしホントに急な上に、ただ石を積み上げた様な階段。でもオブローダにとってはこの位はちょちょいのちょい(笑。
日月宮に並んで小さな八幡宮と猫淵神社。
向こう端の猫淵神社の中には招き猫の置物と共にちょっと古そうな彫り物の猫が。ちょっと不気味(笑。
やはり猫の描かれた絵馬も沢山ありました。
現在は60mほど掘られた3本の穴が残るだけですが、最終的には60m掘った所から奥に22m、幅15m、高さ10mのドーム型と言うかかまぼこ型の工場が作られる予定だったようです。
実は7月7日のNHK岩手ローカルの番組「クローズアップ岩手」で詳しく放送されました。詳しい場所もそれでやっと解かったので(汗、さっそく行ってみました。
国道から山に向かって田の中の道を行き、山に突き当たるともう見えて来ます。
穴が三つ並んでいるのですが、上手く引いた画が撮れない。
一番左の穴。高さ2mほど、露頭の時点でもう硬い岩盤の様で崩れも殆ど無く侵入には何の障害もありませんが…やめときましょう、立入禁止の札も立ってるし(w。
真ん中の穴。こちらも崩れはありませんが水が溜ってる様です。三本の穴は中で継ってたりはしないのかな。
めったに入れ直す機会があるわけではありませんが、
楽ちん楽ちん。
bの橋の袂辺り。ここに山いがのミニレポートでもレポされてる謎の穴(wがあります。石垣の上には駅の他、購買部など厚生施設が固まっていた様でそこへ通じる地下道だったのでしょう。
周りの石垣とは施工が違うのは、bの橋が出来た事によってここに地下道が作られたからかも知れません。
地下道手前の柵はやはり軌道への飛び出し防止の為でしょうか。
地下道を潜って駅のあった北側方向。振り返って地下道の出口。その背後には分かりずらいですが、かつては仙人峠への登り口だったスロープがあります。
さて、もう一方も直筆のもの。しかも名と印が入ってます。
こちらは大橋の辺りも詳しく描かれており、しかも釜石線のループも描かれています。中央辺りには製鉄所裏の鉄滓の捨てられた八幡舘の山も見えます。
しかし、初三郎の絵は検証にはもちろん不向きですが、なんか惹かれるのですよね。
実際と照らし併せてしまうのが逆に面白いのかもしれません。
旧道と聞いて私の重い腰が上がった(笑。
踏切の番号は花巻駅の方から順に付いている様です。
第一釜石街道踏切は晴山駅を過ぎた所にありました。
踏切にはその踏切の名称と起点?からの距離が記載されています。それを見るともう16k90mも過ぎている。
案外起点から離れています。
しかし、実は土沢に母の実家があり1970年に国道に指定される以前から父の車で度々土沢まで行っていた私には、これは想定内の事(笑。
当時は道筋もほぼ旧道通りで町場以外は殆ど未舗装でした。
ちなみに土沢駅前後でも旧道は釜石線と交差しますが当時から跨線橋と跨道橋でクリアしています。それより花巻側では釜石線と釜石街道はすっかり離れてしまいます。
暫く旧道を通り第二釜石街道踏切。踏切を渡ると現国道に合流します。
岩根橋駅の手前、跨線橋を渡らずに旧道に入り暫く行くと第三釜石街道踏切。やはり向こうは現国道。
ここにサビサビの標識が。
旧軽鉄宮守隧道のある岡を過ぎると跨線橋で旧道に入ります。向うに残る煉瓦の護岸は軽鉄時代のものだろうか?
すぐに第四釜石街道踏切。現道へと合流します。
さて、旧道は宮守の町に入り宮守駅の前を通ると第五釜石街道踏切。向こうの農協(経済連でした)の倉庫がいい感じです。線路のこの先は例のめがね橋。旧軽鉄の橋脚跡が有名ですが、橋台跡もしっかり残ります。
さて、この後は青笹町の第六釜石街道踏切まで釜石街道と交差する踏切はありません。
遠野の市街地でも、切り通しが掘られ立体化されています(画像は旧道の跨線橋から遠野駅)。
さらに言えば、第七以降も釜石街道踏切はありません。
特に大橋駅以降は釜石街道を併用軌道として社線が通っていたため(と言うよりは社線の脇を釜石街道が通っていた)、釜石街道踏切としては作ろうにも作れなかったものと思われます。
県道を挟んでホテル志戸平の反対側、現在は駐車場になっている所に遊楽園はありました。
その南端の辺り、山際を見るとあったー。本当に山を掘った物では無く、山肌にコンクリートでボックス状に設えてあります。それでもポータルはレンガでアーチが組まれています。
わざと作られたトンネルとは言え、やっぱりねえ、電車列車にはトンネルが憑き物ですもんねえ(笑。
反対側のポータル。けなさんの情報通り格子の扉が付けられ中は物置になっています。しかしその扉も、反対側もでしたが今では用をなしていない様です。
ポータルから続く石垣も付き物ですね。このように擁壁も石垣だったりコンクリートだったりしますが、暫く山際を走っていた様です。
現在の駐車場の北端辺りに来ますと山際に鉄製の階段がありました。もうすっかりサビサビで上がるのは躊躇われましたが、見上げてみるとなにやら社の様な建物があります。
ふと右手をみると、なんと切り通しが。ここの豆電車には切り通しもちゃんと用意されていたのでした(笑。しかし、こちらから見て左側にだけごつい擁壁があります。
行ってみると、なんとこの上にもトンネルが!? 位置からしてこちらはモノレールのトンネルだったのか。
反対側から登って行くと、あれ、さっき社に見えたのはこれだったのか。小さな東屋です。
こちらもわざと設えたトンネルですが、中もアーチ状で緩くカーブしています。ポータルはやはりレンガでアーチが組まれています。
なんか本格的だなあ(笑。
中に入っても雰囲気バッチリ。床にあるコンクリのボックス状の物は、やはりモノレールの土台なのでしょう。
滝沢駅の前後は昭和40年代、複線電化に伴う急勾配対策で付け替えられ、その滝沢駅も昭和42年に移転開業しています。
旧駅は現在の県道の通る辺りにあったと思われ(画像は鉄廃より拝借)、当時県道は旧駅で突き当たっていた? 駅裏へは南側を迂回していた様です。
しかし、初めてここいらを通った時気になったのは"滝沢駅前郵便局"。駅前にしちゃ離れている(笑。もしかして昔は駅の位置が違っていたのかな、なんて風に思う雰囲気がここら辺にはあったように感じてはいたのですが…。
まずは北側、分岐点の辺りから見ていきましょう。
こちらも鉄廃より拝借
住宅地を過ぎると林道の様な道になります。しかし両脇には石垣が続き、当時を彷彿とさせます。
途中、西側の林にこんな標柱が。これが噂の鉄道防雪(防風)林か。
ほどなく分岐点にたどり着きます。現在線が一本しか見えませんが、向こう一段下に上り線があります。
振り返って滝沢駅方面。大きくカーブして行きます。しかしブレブレ_| ̄|○
さて、住宅地内は殆ど痕跡はありません。しかし画像中のA地点、水路を跨いでいますが、これは当時からと言うか後から水路が作られたのだと思います。実際、水路がわざわざサイフォン状に潜っています。
図中の青線は私が引いた線ですが、ここから旧駅方面を見ると、道路の方向と橋の向きが微妙にずれています。右上の建物は雇用促進住宅ですが、ここの敷地にかかって通っていたと思われます。勿論現在の道路も以前の構内の東端だったと思われます。
つまり、駅構内は雇用促進住宅の辺りから、県道が南側に迂回して踏切があったと思われるB地点までだったのでは無いかと思うわけです。
さてそのB地点。車の向こうの建物の所がちょうど道床だったと思われます。ここから左手を眺めると、けっこう高いです。下の住宅地は現駅と同じくらいなので、これだけ高さが違うわけです。ただ、こっちの道路や住宅地も少々嵩上げされてはいます。
その建物の裏から入ってC地点の辺り。道床から外れた辺りに総裁の言っていた升状のコンクリートが。鉄のスタッドが生えていたのでやはり小屋か何かだったのか?
しかしその少し旧駅側にトラ模様の残る物体が。これは鉄的にはどういった構造物なんでしょ? 踏切があったと思われる場所からも結構はなれています。
南側、切り通し方向をみると5月でもこれです。夏場はやはり遠慮したい(笑。と言っても今回も踏破はしなかった訳ですが(汗。
さて、その切り通しはワープして南端部分にやって来ました。最初、左側の窪みがその切り通しだと気づかず、右側、材木の向うに林道が続いてるのですが、それが軌道跡だと思ってしまったり(汗。
だってねえ、かなり広いんですよ、これが。進むに従ってだんだん狭まりますがそれでも裕に複線は採れそうなくらい。
南に続く築提もかなり広いです。
築提の真ん中の道路を挟んで両側に家が建っています。
現巣子駅より築提を望む。ちょっとやっぱり分かり辛いです。反対側から眺めた方が築提の雰囲気が分かり易いですが、知らずに見ればやっぱりただの小高い住宅地(笑。
おまけ。南端の分岐点にて。
流したつもりがやっぱりただのブレ画像(汗。
陸中大橋駅の前に立つと正面に旧道の入口が見えます。
ここから甲子川を渡り現国道をくぐって行きます。暫く両側には民家が残ります。
民家が途切れる辺り、東北自然歩道の整備による橋が見えてきます。正面の山肌に九十九折れがあるのですが良く分かりませんね(汗。
当時はこの橋が無く、簡単な仮橋があったのですが結局バイクでは渡れないので引返したのでした。
私はもうバテていたので「え〜、そんな〜」と思いましたが、クラブの面々は最初からそのつもりだったらしい(汗。
ここからマピオンや地形図の点線はほぼ真直に進んでますが、んなわきゃ無い(笑。
その点こちら、地図の旅愛好会にある大正5年発行の「遠野」の地図がさすが当時の物だけあって、けっこう実際をトレースしています。
さて、そこを数段九十九折れし、尾根を巻いていくと枯れ沢が見えてきます。
その奥にあったー、ここまで来たのだった。
石組の橋台があり、今はすっかり土で埋まってますがかつては木橋があったのだと思います。
その先を見上げると、うおー石垣が段々に !
当時からの物なのでしょう。けっこう緻密に組まれています。
そこを登って行きます。ここは私もバイクで通ったはずですが、こんな切り返し良く通ったもんだ。今じゃ無理だ(笑。
枯れ沢を巻いて尾根に出ます。
ここから尾根伝いに細かく九十九折れしている様ですが、なんと、掘割の様に深く刻まれた九十九折れが。
暫く登った所から振り返って。
単なる登山道だったらこんな事はしないよねえ。
現在、東北"自然"歩道などとはなっていますが前途の石垣と共に、この道が歩きのみとは言え歴とした"道路"だった証なのではないでしょうか。
九十九折れ部分を登りきったあたりでダウン。
ここら辺は500mほどでしょうか。入口は250mほどですから一気に250m登った事になります。んでも峠は890m位なので更に登って行かなければなりません。
クマーも恐いので今日はもう戻ります(汗。
オマケ。遠野側、旧字沓掛の入口。
さて、峠を越えて大槌町側に下った所にもありました。こちらには二番目の柱も欠けずに残っており「第○號砂利置場」の文字が見えます。
しかし「第○號」の数字の部分は彫られた字では無かった様です。
雫石〜橋場間の建設の様子が宮沢賢治の作品「化物丁場」に描かれています。
青空文庫「化物丁場」
舞台は大正11年の8月下旬 ? やはりギリギリ軽便線時代の東横黒線。
しかし、この物語の内容が事実とすれば、この"化物丁場"の部分は開業一ヶ月ほどで崩れてしまったのか !?
さて、その"化物丁場"の部分はこの辺りでしょうか。
左手の川から結構高い所を走っています。現在線路より川側に国道46号が通っていますが、実は右手線路の向うに見える擁壁の上に旧道があり、以前は線路より山側を通っていた様です。
橋場線はその後1944年(昭和19年)に不要不急線として雫石〜橋場間が休止され(レールが釜石線の建設に使われてます)、1966年(昭和41年)に田沢湖線として全通した時に赤渕〜橋場間が完全に放棄されます。
その部分に行ってみます。
赤渕駅の先の跨線橋を渡った辺り。国道の一段下の段差が怪しいと言えば怪しい。
ここでうろうろしてたらコマチキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!。慌てて撮ったので小さいです(汗。
この後暫くはレストランや家が数件立っており路盤は定かでありません。
さらに向うの林の中に入ってみます。
すると林の奥に水平に路盤が見えてきました。
しっかり残ってるではないか。橋場駅方面にも続いている様です。
その先は民家に転用されてたり安栖の集落が始まったりで、近付き難い雰囲気です。
しかしこの安栖に橋場駅があったそうで、道路から集落の方を見ながら走ってると、家並みの間からちらっとコンクリの階段が見えました。行ってみると転用はされてるのでしょうが、かつては駅前の広場があったような雰囲気。しかし残雪が尋常じゃないぞ(w。
近付いてみるとなかなか良い具合に朽ちています。
上ってみると、ちゃんとホームも残っています。終点方向には転車台もあったそうですが確認出来ませんでした。
しかし流石にかつての終点駅。けっこう広いです。雪がなければ様子がもっと良くわかったかな?
岩根橋地区の公民館の前に立ち川の方を見ると道が続いている様に見えます。
行ってみるとやはり橋台がありました。こういう配置は吊橋だったのでしょう。
対岸にも薮の中に見えています。夏場は葉に覆われ見えないことでしょう。
発電所の遺構自体も20年程前迄なら通年で見えていましたが、今はこの時期でもどんな遺構か見当も付かなくなっています。
橋台には未だ一本のワイヤが対岸まで張られていました。
また傍らには大瀧明神の祠が。
大瀧明神とは大瀧神社の事で、雨をつかさどり水脈を支配して豊作を授ける神とされているとか。
思うにこの辺は河岸段丘地帯で堤防等も特に整備されていないため残ったものと思われます。
現釜石線より一段低い橋台、ちなみに軽自動車程度ならすぐ傍まで逝くことができます(笑。
川の方へ行き対岸を眺めてみると、なにやらかすかにやはり橋台らしきものが見えるでは無いですか。
あそこに辿り着ける道はあるのだろうか。対岸側にはあまり期待していなかったので、下調べもしてないんだけど、しょうがないので取り合えずいってみましょう。
釜石線に沿って何軒かある最後の家の前まで来ると、その先には牧草地があり、さらに奥は薮になってますが今時期なのでけっこう楽に辿り着けました。
ありました。現線路とさきほどの牧草地とに挟まれて、ちょっとした切り通し状になっています。
下に降りて見上げてみると、二段になっているのが判ります。似内側の橋台と同様、石積みの目地にはモルタル?が詰められている様です。
川の方を見てみると波打っているあたりの水底に橋脚跡があると思われます。これは、列車からなら良く見えるはずです。
まずは、青金橋の旧橋。この路線は良く通るのですが今まで気がつかなかった_| ̄|○
夏場は薮に覆われてるのだと思います。現在はこりゃまた雪に覆われ親柱の銘板等も確認出来ず。
さらに下っていくと津付集落から旧道が分かれています。
入ってすぐは舗装されていますが、舗装も途切れると岩肌剥き出しと石積みが混在する林道の様な道になります。
暫くいくと切り通しキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!! けっこう巨大です。隧道を掘っても良さそうなほど(笑。
切り通しから暫く進み振り返って。護岸の石積みから何本も太い木が生えています。
左側は深い谷。実際このあたりでダムが計画されていますが、最近の例に洩れず行き詰まっている様です。
集落を抜け国道につきあたる前にこんな看板がありました。
旧道以前の街道は現国道と同じあたり、高い所を通っていた様です。いや、むしろ国道付け替えの時に街道をトレースしたのか。
国道とのつきあたりで、国道は橋を渡りますが旧道はまっすぐ進んでる様です。右手向こうの山肌にも雪でラインが見えています。
実はこれも私、今まで気づいていませんでした。
国道は橋を二度渡り左岸に戻りますが、右岸にも数軒民家があるので旧道もそっちに渡っていたとばかり思っていました。今時期だから気づいたのでしょう。
向こう側から入ってみます。
やっぱりいいですねえ、全く使われなくなった廃道の雰囲気。正面の雪の下は普通(wに上から崩落している様です。川側の護岸もしっかり苔むしています。
崩落を越えていくと山側には石積みが二段になっています。護岸の方には等間隔で整然と並んだ杉が自然の妙を醸し出しています。
でも多分このせいで夏場はここに道が有るようには見えないんだろうな。
JR釜石線遠野駅。現在の駅舎は昭和25年国鉄釜石線全通と同時期に建てられ、その後幾度となく改装されている様です。
現在2階部分はフォルクローロ遠野というB&B(ベッド&ブレックファースト)形式のホテルになってます。
一見煉瓦作りに見えますが構造はコンクリートブロックによるもの。ただ、現在一般的に見られるコンクリートブロックとは違い、専用に作られた物の様です。
入口など一回り小さいブロックも使われていますが、それでも手前の一般的な煉瓦と比べるとかなり大きいサイズなのが分かると思います。
屋根は当初から粘土瓦ですが少なくとも一度葺き替えられた模様。
もう一度離れて見ると左手の1階部分の方の屋根に鯱鉾の様な物がちらっと見えます。
それはなんとカッパの鯱鉾(笑。
見てみると結局原因は…よく分かりません_| ̄|○
とにかくそこにあるパッチをMatroxのドライバソースに当てます。
xorgのデフォルトではmga_halは作られませんが、そのパッチを少し見てみるとmga_halを作るようになってる様です。
私の場合portsで入れてるので、x11-servers/xorg-serverでmake extractして該当部分をパッチを当てた物と入れ換えて、
portupgrade -fw xorg-server。
結果は上々。偉い人に感謝。
ただ、コンソールに戻ろうとすると信号エラーでちゃんと表示されなくなる_| ̄|○
まあ、起動時は問題ないし、コンソールだけで操作することも実際あまり無いしね。
という事らしいが良くワカラン。が"mga_drv.so"? と思い/usr/X11R6/lib/modules/drivers/を覗いてみるとドライバ群が全て〜drv.soになってる。6.8.2までは〜drv.oだったはずだ。/libexec/ld-elf.so.1: /usr/X11R6/lib/modules/drivers/mga_drv.so: Undefined symbol "MGAGetBOARDHANDLESize"
とりあえずmga_halを削除して起動してみると、起動はしているようだがディスプレイは真っ黒。ttyの切替えも効かないので2号機からsshしてtopしてみても確かにxorgを始めX関係は立ち上がっている。
そうだ、L565とはDVIで接続しているが、DVI接続はmga_halライブラリにより提供されてるのだった〜。
仕方ないので2号機に繋いでいるD-subをG550のD-subに接続。映るようにはなったけどこれじゃ2号機が繋げない_| ̄|○
一番いいのは2号機のG400と入れ換えればいいのだけどメドイなあ。
しかし、廃感は薄れるかな。以前は看板以外はほったらかし状態で、いかにも廃と云う感じが良かったのですが…。
さて、松島水族館も見て水族館の南の方に遊歩道がある様なので行ってみました。
すると、"超"切り通しがあるではないですか。コラッあみ、動くな(w。
そこを通り抜けると祠状にくり抜かれた中には五輪の塔が。やはり松島近辺は削り易く崩れにくい地質なのでしょう。
東海の小島の磯の白砂にあみ泣きぬれて蟹とたはむる。蟹は居ませんでした。