12月28日(水)2005年 | マルカンデパートの大食堂 |
11月23日(水)2005年 | 浄土ヶ浜遊歩道の旧道? |
11月18日(金)2005年 | pango_x_font_map_for_display |
11月10日(木)2005年 | 大出森林軌道(仮称)跡上大出付近 |
11月04日(金)2005年 | 橋野高炉一番高炉跡 |
10月17日(月)2005年 | 五葉山中腹の廃林道 |
10月09日(日)2005年 | 横手焼きそばツアー |
10月05日(水)2005年 | 小松峠 |
10月01日(土)2005年 | 田沢湖MOtoオフ |
09月18日(日)2005年 | 6.0-BETA5 |
08月10日(水)2005年 | 稲荷街道 |
08月03日(水)2005年 | 国道45号 大峠 |
08月02日(火)2005年 | 浜街道 古峠 新峠 |
07月08日(金)2005年 | 真木澤橋 |
06月22日(水)2005年 | linuxpluginwrapper 20050613 その2 |
06月17日(金)2005年 | linuxpluginwrapper 20050613 |
06月16日(木)2005年 | eTrex Legend C |
06月09日(木)2005年 | 黄金山発電所水路跡 |
06月07日(火)2005年 | linuxpluginwrapperとacroread7 |
06月04日(土)2005年 | 林道のループ橋 ? |
05月22日(日)2005年 | 和山街道(大槌街道) |
05月21日(土)2005年 | 石塚峠 |
05月14日(土)2005年 | 岩手軽便鉄道第2早瀬川橋梁(仮称)跡 |
05月07日(土)2005年 | 岩手軽便鉄道猿ヶ石川橋梁(仮称)跡 |
04月21日(木)2005年 | 岩手軽便鉄道遠野市街の軌跡 |
04月10日(日)2005年 | 岩手軽便鉄道第1早瀬川橋梁(仮称)跡 |
03月23日(水)2005年 | 沼田製瓦工場の煙突 |
03月22日(火)2005年 | 庭の河童 |
03月16日(水)2005年 | 黄金沢発電所の水路隧道 |
03月07日(月)2005年 | midiを聴く |
03月06日(日)2005年 | Anthyを使ってみる |
02月13日(日)2005年 | 大志田駅近辺 |
02月09日(水)2005年 | 釜石・赤柴川沿いの市道 |
01月26日(水)2005年 | ちょこっと仙人峠 |
花巻市にあるマルカンデパートの展望食堂。
何が凄いって、昭和4、50年代にはどこのデパートにもあった、いわゆる最上階の大食堂が現在にそのまま残っていると言うことでしょうか。
フロア全面を使った大食堂。この日は平日の昼下がりだったので客もまばらですが、休日ともなれば満員になるそうです。
メニューも和・洋・中揃った大食堂の物で、おまけにリーズナブル。
さらにはウエイトレスが紺の制服に白いエプロンと正にメイドスタイル、じゃなくてトラディショナル !
今日はネギラーメンを頂きました。味についてはそれなりですが、ここでは細かいことは言わない(w。
しかし、まんなかに載っているのは、うめぼしじゃなくて豆板醤。これが、遠野の隠れ名物「五右衛門そば」を彷彿とさせる味を醸し出しています。
"マルカン ソフト"でググると面白い物が見れるかも。
さっそく行ってみます。
レストハウスから行って二つめの隧道。立派な坑門で綺麗に巻き立てられています。しかし、その右脇に続くコンクリがすっごくぁゃιぃでしょ。
隧道の前から眺めるとこんな感じ。海岸にへばり付き残ってるコンクリと海側に塀状の物が残っています。
以前は塀状の所まで道でその間の構造物は流れ出てしまったのか。
その向こうを曲がってみるとコンクリはわずかにしか残っておらず、塀状の物もちょっと顔を出しているだけ。直接波を受ける面だけに岩盤上に打たれたコンクリも殆ど流されてしまった様です。
さらに進むと塀状の物の先に辛うじてコンクリが残っています。先ほどもですが細いプラスチックのパイプが埋め込まれていた様です。やはりそれほど古くは無い?
その先を曲がるとこっちはけっこう長くのこっています。しかしやはり山側との間は流されてしまっています。その先に残る構造をみると、石で埋めてコンクリで蓋をする構造だったためなのか。
いや〜、この風景。ここに来る度気になってたんですよねえ。
どうもWITHOUT_XFTでビルドしているのがいけないらしい。勿論WITHOUT_XFTをはずしてビルドすればよいのだけどアンチエイリアスのかかったフォントは私的にはちょっと…。
ググってみるとlibpangox-1.0.soをLD_PRELOADすればいいらしい。
最初、.cshrcに
としたら、今度はja-acroreadが起動しなくなった。setenv LD_PRELOAD libpangox-1.0.so
としてmozillaにだけ効く様にする。LD_PRELOAD=/usr/X11R6/lib/libpangox-1.0.so mozilla
これ以上は私の手には余るのでガマンするとしましょう。
さて、大出からここまでの軌道筋ですが、現在の林道はアップダウンありの沢に沿って大きく回り込みありので、全く違う筋と思われます。
猿ヶ石川に沿っていたとすれば、その沢には橋があったかも ?
とりあえず上大出まで行ってみると、前掲のマピオン地図のマークのあたりから南に怪しい分岐が続いてます。
入って暫く進むと浅い切り通しが。更に進むと何やら看板が見えます。
砂防ダムでした。
しかし、その先を見ると笹に覆われているものの道が続いているように見えます。
歩いて逝ってみます。笹も浅く道形が続きます。
途中、冬毛でモフモフなうさちゃんが出てきてびっくり ! クマーでなくてよかった。
沢のあたりに着くと、むむ、緩やかにカーブした築提だ。この細さは確かに軌道のものでしょう。
苔むした玉石の護岸がいい感じですが、暗渠がヒューム管なのがなんかチグハグ。まあ、そんな時代だったのでしょう。
山側からのショット。
帰り道、大出方面からの林道との分岐を発見。
林道が登っているのに対して水平に進んでいます。
'92年当時に撮った写真が出てきたので現在とちょっと比較。
'92年の様子。一番高炉跡は最も奥にあるのですが、回りの林が鬱蒼として高炉の石も苔むしています。
現在の様子。回りの木々もすっかり苅り払われ明るくなっていました。
高炉自体は耐火煉瓦で作られこの石組はそれを支えるものだったようです。
しかしその日は時間も遅かったので、今日あらためてもう一度六郎峠から辿ってみます。
県道180号上有住日頃市線の六郎峠の頂上部から林道に入ります。
入って間もなくこんな状態。まわりは伐採されてまだ十数年?で、夏草が生い茂っています。轍は残っているのでなんとか通れますが、こんなだとやっぱりブッシュガードと言うかハンドルガードがほすい。
暫くはちょっと荒れた林道かな、と言う感じで続き700mに近付いてくるといい感じになってきます。
檜山からのもう一つの登山ルートとの交差点。
ちょっと行くと、誰だーこんなとこで泥遊びしたのはーって、鹿が泥浴びをした後でしょう。ここ以外にも見受けられました。
崩れてからかなり経っていると思われる崩落箇所や、倒木もあったりしますが薮も無く走りやすい道が続きます。
すると半分抜けた暗渠状の橋が。前後は石の野積みで作られており、野趣溢れる中にもけっこうきっちり作られている様子が伺えます。
落石 ド━(゚Д゚)━ ン !!!の向こうにも木製の橋が。野積みの護岸も随所に、とは言い過ぎ(w。
そんなこんなで進んで行くと到々あの半分崩れた橋が。やはり10年前もここだったのだ。
石の野積みの橋台に架けられた木橋は自然に落ちたと言うよりは、山側からの土砂の流入に押されて崩れたと言った感じです。
その土砂と言うよりは岩ごつごつなんですが、そこが何とか通れそうだったので行ってみます。
トライアルをする人ならひょいひょいと行けそうな感じですが、私は"押し"で逝きます(汗。いや〜、押しでもけっこう汗をかきます。
途中立てかけられる岩があったのでちょっと一休みの図。
何とか渡りきり、振り返ってこちら側から見ると、太い木も生えた橋台の様子がよくわかります。
こちら側も走りやすい道が続きます。巨石が擁壁の役割を果たしています。
車止部分に到着。クマー出没注意です。
さっそく元祖神谷焼きそば屋へ。
それではいただきま〜す、って肝心の焼きそばが切れちゃってるし。
見た目よりあっさりした感じで(゚д゚)ウマー
帰り際近くの秋田ふるさと村へ行ったら、オールド・カー・フェスティバルをやってました。
70年代の日本車(スカGとかセリカとか)が多かったですが、サーキットの豚で育った世代にはやっぱりこれ。
ヨーロッパはやっぱりフロントからサイドにかけてのウインドウのアールが良いよねえ。
その後ワンダーキャッスルで年甲斐もなく遊んで来ましたとさ。
あっ、廃関係はないよ(w。
小松の集落の県道から入っていきます。
暫く行くと分れ道に標柱が。歴史の道遠野街道小松峠と書かれています。小松峠に至るには旧道と新道が有ったようで、右が旧道と思われます。
そちらに行くと暫く林道が続き、伐採現場で終点でした。
左の方、戦前には馬車も通っていたという新道を行きます。
谷津田を巡って山に取り付くと標識が。そのちょっと先には天然の擁壁が向うまで続いています。天然とは言いましたがやはりこれは人工的に削ったのでしょうね。
一旦山を巻いてから繋沢沿いに登っていきます。
四輪の跡もあり所々ぬかっていて普通の林道と言った感じですが、四輪の跡がいつのまにか無くなったと思ったら落石 ド━(゚Д゚)━ ン !!!。こりゃでかい。しかしかろうじて脇を通り抜けていきます。
さらにここの先の沢もけっこう抉られていましたが、なんとか通過。もう完璧にシングルトラックです。
少し行くと峠の手前で決定的な抉れが。よく見えませんが少し向こうも抉られています。
実は10年ほど前もここまで来たのですが、ここまでは特に破綻もなく、軽のバンも止まっていました。しかしここはつい最近と言う感じで抉られていました。
峠はすぐそこなので歩いていきます。
するとけっこうな規模の切り通しが。切り通しの内側にもけっこう太い木が何本も生えています。
切り通しの反対側から。いい感じですねえ。
その先にはぁゃιぃ道筋もありましたが、地図上の道筋とは違うようです。
実際日頃市、石橋側からも登って見ましたが途中で道をロストしました。
バイクに戻りましょう。苔の絨毯と化した道を戻ります。
題名の通りバイクでのオフ会なのですが当日はけっこう激しい雨。ヘタレなワタシはセリカで行ったのでした(滅。
雨にもめげずバイクで来た御三方。
右から、あや姉さん&セロ吉、はくちょう氏 & XR、なりしん氏 & KLX。
そしてかぜぎみのため、やはり車で来たRino氏とブルーディスティニー。
雨の中遠くから集まった5人は強制的に「M 同盟」会員にされますた(w。
ワタシが一番近かったかな?
mallocやカーネルのデバッグオプションは消えた様ですが、先はまだ長い ?
矢巾町煙山の林業技術センター、現在は西側県道沿いに今風の門がありますが、東側に古い門がありました。
右には青森営林局盛岡営林署、左には煙山種苗とあります。これはこれでいい感じじゃないですか。
ここを入ってちょっと行きそのまま北に入っていくと、ありました。
いやあ、こんな道がそのまま残っているなんて。車と比べると広さが判ると思います。
勿論、全線に渡ってこの広さだった分けでは無く、ここより少し南に進んだ所(現在のパストラルバーデンのあたり)に岩崎御用屋敷と呼ばれた休憩所があり、隊列を待機させる為にこのあたりだけ広かったと言う説がある様です。
他にも赤林一里塚や、
和味一里塚等が現存しています。
今回は歩いてでもと思い、三陸町側から行ってみたら林の間伐など維持管理されてる様子で、そこに道が続いています。
ここだと思いバイクで侵入します。
枝打ちされて適度に明るい林の中を特に破綻もなく道が続いています。やはり林の維持管理に利用されているのでしょう。
いや、実は完全に崩落したと思われる部分もありますが、完璧に補修されてたりします。
暫く進み三陸隧道に近付いてくると別れ道が。
下る道は三陸隧道の手前に降りている様です。このまま続く道は草も今までより生い茂っています。やはり林の管理に使われているのはここまでで、この後は車輌の通行は出来ないのか。
とりあえず進んでみます。
暫くは一応ダブルトラックが続きますが、山からの沢が道を横断していました。そこから先は四輪の跡も在りませんがとりあえず進みます。
しかし、とうとう倒木が。ここからは歩いて行きましょう。
道形はしっかり続いていますが、低く草が生い茂り倒木も所々にあり沢筋はぬかるんでいたりします。
ほど無く峠部分に着きました。結構深く長さもある切り通しです。左右から崩落しておりV字となった谷には一筋の正に獣道が。
大船渡側は崩落もあまり無く、獣道と人の踏み分け道がダブルトラックを形作っています(笑。
さて、大船渡側を下ります。
道形はしっかり続きます。三陸隧道大船渡側坑口の直上に出ました。うひ〜。実際結構な高さがあります。
さらに下るとあったー、今回唯一の石組です。二級国道の片鱗です。
この沢から道形を壊さない程度にブル道が上がっており、この先近年伐採されたようです。しかし道が細くなってませんか? 切り取られの恐怖か?
そこを辛うじて通り抜けるとまた低く笹の生い茂る道が続きます。
しかしその先を回り込んだら今までには無かったガードレールが。とうとう完全に切り取られてしまった様です。
さっきの石組のあった所からエスケープして、三陸隧道を通って戻ります。交通量も少ないので歩きでも安心です(笑。
歩き部分のGPSデータです。林の中でも歩きの速度なら結構ちゃんとトレースしてくれます。 >
さて、古峠へ行ってみましょう。
国道45号から大船渡農高の脇を登っていきます。
舗装も切れると養鶏場が見えてきます。それも過ぎると道が心細くなってきます。いい感じです(藁。
小さな橋がありました。コンクリート製ですが確かに小さく2tが限度といった感じです。
もう暫く登るとけっこう立派な石垣とその反対側にはのっぺらぼうの標柱が。この道は林道として作られたのだと思われますが、それにしては立派な石組です。
ほど無く峠部分に着きました。
旧三陸町側から夏虫山に至る舗装路に出ます。ここに「歴史の道」の標柱がありました。さっきの標柱もこれの文字が消えてしまったものなのかもしれません。
河内方面に下り、民家がぽつぽつ見えて来ると道端に河内一里塚があります。これは古峠の一里塚です。
もう少し下り南方面へ入ると民家の先にもう一つ一里塚があります。こちらは新峠河内一里塚です。
ここを少しすすむと木橋がありその向こうは鹿避けの網が。峠へはその山を左に巻いて行くようです。歩いてそこまで行ってみましたが確かに道は続いてますが、そこにも網が。
航空写真を見ると、かつて峠付近まで林道らしき道が通っていた様ですが、抜けてはいない様です。バイクで行ける当てもないのでひきかえしましょう(汗。
人道としての思案坂は地図上では現槙沢橋の少し下流に点線として残りますが、槙沢橋以前の国道はどこを通っていたのでしょう。
現国道45号線は、昭和19年までに県道等として整備され昭和28年に二級国道111号線に指定されます。また、昭和37年には一級国道45号線に昇格します。
槙沢橋は昭和40年に完成しています。一級国道に昇格した事による整備と思われますが、それ以前の国道としては地図上で上流側に点線で残る道の様です。
しかしこの道は微妙で、実は昭和16年に軍事用に防衛道路として作られた道だというのです。
一般人は通ることは出来なくやはり思案坂を通っていたとの事で、戦後も特に使われることは無く、自動車も専ら現県道44号線の越ノ石峠を通っていた様です。
この道に近年まで木橋が残っていたようです。真木澤橋です。
この画像は三陸国道事務所のページからですが、同ページのこちらを見ると岩泉高校田野畑校の放送部が取材した時点まではかろうじて橋は架かっていた様です。
この取材が何時だったのかははっきりしませんがこのシンポジウムのあった年だとすれば、おととしまではこの橋は残っていた !
さっそく行ってみましょう。
岩泉方面から越ノ石峠、大芦トンネルを通り北側から行きます。県道が国道に交差する少し前、ここが入口と思われます。入ってみると何というか古い林道の様相。林も深くGPSが用をなしていません(笑。
道は完全一車線、自動車がすれ違い出来るような所もありません。林が深いのでここ数日の雨で水溜が目立ちます。
道半ばでやっとそれらしい遺構が。石垣がありました。
また暫く行くと轍も途切れて落石が少々あるなと思ったら、目前に短いけど深い切り通しが。そしてそこには大小の崩落した岩が(画像は反対側から)。
こりゃバイクじゃ無理とあきらめそこから歩いてみますが、崩落と小さい岩がごろごろと。
絶壁の谷側から水音も聞こえて来ますが川は全く見えません。それでも暫く行くと倒木が累をなしてきました。歩きでももうだめかと思った先にも苔むした石垣がちらりと見えました。
仕方がないので戻り、槙沢橋を渡り反対側から攻めてみます。
ここが入口。こちらも古い林道の様相ですが、先ほどに比べればまだまともと言えます。それほど苦もなく着きました。
が、やはり落ちてました。橋台は石積みですが橋を支える部分(何というのでしょう。橋脚はありません)はコンクリート製の様です。
完全に崩落してます。この橋材の残り方はやはり近年の崩落か。
こちら側の橋台。木材と共に鉄板様の物も見えます。
橋のあった所の上流側に取水口の施設がありました。どうりで左岸側よりはましな道なわけだ。
おまけ。右岸側の道の途中、しかも道の真ん中に大きなキノコがデンとおがってました。
こりゃ蹴っても一発じゃ壊れそうに無い(笑。何タケでしょう ?
そこら辺も直して置き換えておきます。
wrapper.diff.txt
libmap.conf.diff.txt
パッチを置き換えておきます。
wrapper.diff.txt
libmap.conf.diff.txt
それなりに使える日本地図が入るならメニューとかは日本語で無くても構いませんし、何といっても日本語版は高い。LegendやVistaの日本語版は英語版に比べ倍近い値段になっています。
Legend Cも夏には日本語版が出るという話ですが、倍とまではいかないでも8万円前後になるのは免れないかもしれません。地名等も日本語で出る地図は魅力的なんですけどね。
そのページを参考に作った地図をLegend Cで表示させるとこんな感じ。道路の線種や表示、非表示などは地図の作成段階で選択出来るので、その点は便利です。等高線の表示も可能です。
地図の作成はけっこう時間がかかりますが、転送はUSBなので一瞬です。
ハンドルバーマウントや吸盤マウントも、付属のブラケットを装着すれば、Geko用がそのまま使えます。
余談ですが、最初にスイッチを入れて衛星を捕捉するまでは、地図は台湾は台北のあたりを指していました。勿論、Made in Taiwan の表記はされていますが、確かにその様です(笑。
しかし宮守村のページはこういう歴史関係のコンテンツがけっこう充実しています。遠野市にも見習ってもらいたいものですが、合併したらこのページはどうなるんだろう。
さて、そのページを見ると大高瀬の取水口付近に記念碑が有ると書かれています。これについても私は未確認だったのでさっそく行ってみます。
取水口に向かって降りていくと取水口とは反対側、上流方向に少し行った所に大きな石碑がありました。確かに黄金山発電所です(汗。
水路にもまだあまり草はおがっていない様です。これなら第一隧道の前も草があまりおがってないのではと、期待しつつ行ってみます。
おお、煉瓦作りの端正な坑門が良く見えます。水路隧道のためでしょう、両脇にコンクリ製の導水板 ? があります。
降りて近付いてみます。すると向こう側のあかりが。貫通している様です。
扁額は失われています。内部はすぐにコンクリ巻になっている様で、煉瓦は単なる飾りなのでしょう。要石が無いのもそれを物語っています。
さて、中は… 崩落も無くきれいなもんですが、うう〜、こりゃ私はだめでしょう。ヨッキれんさん、お願いします(笑。
仕方ないので反対側に行ってみます。取水口や上流側の坑門への接近は容易ですが、下流側の坑門へは特に道はありません。しかし、国道から笹薮をかき分け下っていくとかすかな踏み跡が現れます。釣り人のものでしょう。
こちらの坑門はコンクリート製の素っ気ない物。半水没状態の様ですがそれほど深くは無い ?
やはり扁額は失われています。宮守村のページには「永頼」と「富源」と書かれた石碑が有るように書かれており「富源」の画像も見られますが、と言うことはどこかに保存されている ?
反対方向を見るとさらに水路が続いています。ここを歩いてみるのも一興かもしれません。
これらを変更すると/etc/libmap.confにも手を入れなければなりません。
/usr/local/share/examples/linuxpluginwrapper/libmap.conf-FreeBSD5-stableを元にman libmap.conf(5)の内容も加えたパッチがこちら。
print/acroread7は日本語フォントを入れても一部日本語が表示できなかったりしましたが、japanese/acroreadですとゴシックフォントまでばっちり表示されています。
flash7についても、私が使ってみた感じでは特に不安定と言うこともなく動いてくれています。
さて、樺坂峠を越えて大槌側に入ると金糞平と呼ばれる場所があります。
新旧2本の標柱が立っています。新しい方は「金糞平の山桜」、古い方は「金クソ平遺跡」と書かれています。
遺跡とは何の遺跡なのか。金糞とは鉄滓の事で、今は刈り取られてはいるものの笹薮に覆われ確認は出来ませんが、数十年前まではこの桜の木の回りに鉄滓が敷き詰められていたのが確認できた様です。
遠野側ではここの事を「カナホッパ」と呼んでいた様です。
この二つの呼び名以外に特段の史料は無い様で、こんな山奥で人知れず製鉄が行われていたのでは、と言う浪漫あふれる話ではあります。
県道35号の橋野集落から古里集落に入ります。ここに最近の物と思われる道標がありました。
普通、上台方面に向かうにはこの林道を使います。砂場とは上台のうち、現在民家がある辺りの様です。
古里、横内集落も種戸坂に向かう街道筋だった様で、殆ど傾斜地にかかわらずけっこう栄えていた形跡が伺えます。傾斜地ゆえ家や田畑はみな石垣の上にあります。
釜石市周辺では石垣は結構散見されますが、この地区は抜きん出ています。中でも白眉なのが横内の外れにあるこの小笠原家住宅。まるでお城の様な石垣です。現在は人は住んでいないそうですが管理はされてる様です。
そのまま種戸坂を進みます。ここもけっこうな急坂です。一部轍部分がコンクリートで補強されてたりします。
頂上部分に着きました。
この画像の私の立ち位置の背後が多分種戸坂の小槌への下り道。う〜ん、歩いては行ける様ですが(汗。
ここから稜線沿いに北東方向に進みます。地図には何もありませんが細目の林道が通っています。バイクなら楽勝です(笑。
暫く進むと石碑がありました。GPSデータその1の画像の種戸坂から最初の旗の位置です。三峯山の様です。
10年ほど前ここいら辺までは来たのですが、当時は造林事業中で一面の禿山状態。結局道をロストして戻ったのでした(泣。
もしかしたらその後、上台までのこの林道が通じたのかも知れません。
さて、二つ目の石碑を発見(二つめの旗)。何の石碑でしょう。最後の字が「尼」と読み取れるので戒名を記した墓石か ? でも墓石だとしたら何でこんな所にしかも一つだけ。それとも供養碑 ?
もう暫く進むと今回のメインディッシュ、児島大梅の句碑です(三つめの旗)。釜石市の指定文化財にもなっています。これを探していたんだよねえ。上台側からは後述する通り民家があるので入って来ずらい物があるんですよね。
ここには昭和10年頃まで茶屋跡が建っていたそうですが今となってはその痕跡も窺い知ることは出来ません。しかし反対側の林の中に一対の石の塚が。一里塚でしょうか ?
ここよりちょっと行くともう一つ三峯山の石碑(四つ目の旗)。
ここら辺から放棄車輌が目に付いて来ます。車種から見て、遅くとも昭和60年頃にはこの林道がここまでは通っていた左証になるか ?
放棄車輌三態。
少々の坂を九十九折れで下ると2軒ほど民家があります。初神で民家を見た時もびっくりしたけど、ここはさらにびっくりだなあ。郵便配達が来るのだろうか ? 因みに初神、和山には来るらしい。
暫く行くと古里からの林道との交差点。
10年ほど前もここは通ったのですがこの石柱はあったかなあ。このまま初神へ向かいます。ちょっと行くともう一軒民家が。こちらは廃屋かな。
この辺に火の見櫓が残っているらしいのですが、未発見でした。
暫くやはり状態の良い道を進み民家の脇を通り抜けて初神に到着。ここでは何といってもこの和山分校跡。一部二重窓なのとブロック製のごつい煙突が山深い寒冷な地なのだと想わせます。
初神へ至るには普通は初神沢沿いの市道(?)を通り、和山へも普通はそちらから行くのですが、昔の道筋に近い直通する道を行きます。
未舗装なのは市道と同じですがけっこう車が通っている雰囲気。おかしいなと思っていたら和山の手前になんと民間と思われる廃棄物処理場が !!
しかし、そこを過ぎるとしょぼい道となります。よしよし(何が。
和山にも現役の民家があります。そのすぐ手前にやはり石碑群があります。フレームからはずれた左側にもいくつかありました。
ここ和山は三軒茶屋と呼ばれその名の通り三軒の宿屋があったそうです。ちょうど遠野と大槌の中間地点なこともあり、常に50人ほどが泊まっていたといわれています。
和山の民家の前を失礼して、もうちょっとそのまま東に進んでみます。するともう一軒民家が !
こちらの道筋は通り抜け出来るか分からなかったので、遠慮して戻り初神沢沿いの市道まで下ることにします(GPSデータその2参照)。
初神沢を下るといわゆる初神三叉路。左が下ってきた道。右は赤柴川沿いに下る元市道で現在閉鎖されています。
しかし、さっきの民家の先が気になります。反対側から攻めてみる事にします。
上記の地点から入ります。
暫くは林業関係の出入りもある様で、まあまあ良好な道です。深い切り通し。右の大きく曲がった木がこの切り通しが出来て数十年は経っている事を物語っています。
ここを登りきったあたりで林業関係もストップ。少し荒れたやはり切り通しを下りますが、切り通しが切れると笹が茂り出します。少し行って道をロスト。エンジンを止めると水の音がします。
ん、沢があるのか、と薮をかき分けて行くと沢の中にコンクリの塊が ! 橋なのか ? しかし手前の河岸は抉られています。
下流にまわってみるとヒューム管を数本鋳込んだコンクリの様子が分かります。向こう岸は石組で護岸されているので、やっぱり橋 ?
まあ、林道ならこういう橋もアリか。
橋の先にはまだかすかに道が続いている様です。
来た道の様子です。そのちょっと向うに石碑があるのを帰り際に発見。
「〜ゐ〜観を〜」しか分からん。「〜観音」でしょうか。右には「大正十一年」と読み取れます。通り抜けはできなかったものの、ここも古い道筋だったのだなと一人御満悦です(笑。
しかし大正13年には笛吹峠に車も通れる道が開通してるんですよね。
唐丹町本郷の方から行きます。
国道45号線から本郷の集落に入り集落のはずれ、そろそろ山道かなと言う所に入口があります。
しばらくはバイクで登ります。四輪の跡もありますが結構な急坂です。四駆でないと無理かな。
途中七里塚があります。いわゆる一里塚の事だそうですが、なんと石組で出来ています。道の反対側にも石組の塚がありました。
七里塚よりちょっと行くとこんな状態(汗。
ここからは歩いていきましょう。
ガレたブル道がしばらく続きますがそのうち道形が無くなります。電柱がやはり峠を越えているのでその脇を登っていくと、直登する道形が見えてき来ました。
そこをしばらく登り、また道をロストしたと思ったら九十九折れしてたのでした(汗。
多分この道は植林時のブル道なのでしょう。九十九折れの始まったあたりに平田小学校林という標柱が。古い方の標柱が、ガシガシに噛まれています。これは熊か ? それとも凶暴な鹿 ?
ブル道だとしてもいい感じの道を何回か九十九折れしていくとやっと峠にたどり着きます。平田側は荒れている模様。印杭の跡はよくわかりませんでしたが、水準点があります。
平田方面がよくみえます。手前の平場は湾口防波堤の基礎石切り出し現場跡。その向うに平田港の埋立地、そして釜石大観音もみえます。
さて、平田方面には抜けずに戻ります。赤線が登って来た道ですが青線の様に別に九十九折れがある模様。降りてみると登ってきた道より小規模の九十九折れがかすかに続いています。可能性はかなり低いと思われますが、もしかしたらこちらは昔からの道形かも。
そこで発見 !
グリココーラ ? の缶と首の所に段と言うか出っぱりのある瓶。何かと底を見たら「三ツ矢」の字に例のマーク。
う〜ん、どちらも私としては初見です。
ちょっと町場からは離れて平倉駅の手前の橋梁部分、並走する国道のラインが怪しいんですよねえ。国道の橋の北側に怪しい築提も見えます。
行ってみるとやはり一段低い築提が国道の橋の方に向かって別れていく様子がはっきりと。
なぞってみました。
猿ヶ石川橋梁部分にせよこの第2早瀬川橋梁部分にせよ、なんか現線に比べまわりくどいラインを描いている様に見えます。
どちらにしろ確証は取れていないのでこれらのラインは私の想像に過ぎないのですが、なるべく川に対して角度を付けないように橋を架けようとすると、こんなラインになると言う感じでしょうか。
JR釜石線猿ヶ石川橋梁部分、国土交通省の国土画像情報(カラー空中写真)を見ると南側に、やはりあやしいラインが見えます。
なぞってみます。
右岸、西側には現線よりちょっとそれて築提跡がある様です。
行ってみるとたしかに築提らしき跡が。向うの方から現線より一段下を徐々に別れている様子が見て取れます(って、ちょっとわかりずらいかしら)。
現線は堤防より一段高いのに対しこの築提跡は堤防とほぼ同じ高さ。しかし残念ながら橋台等の痕跡は皆無でした。
この堤防も石組のけっこう古そうな物ですが、時代等関連性は未調査のため不明。
さて対岸側も目立った痕跡は皆無。しかもこちらは最近自転車道が整備されてます。
しかし、この整地から畔道状に取り残された一角があやしいと言えばあやしい。
その地点で街側に振り返ります。
右側にあやしい築提がありますがこれは違うでしょう。そのすぐ右に市水道の水源地があるのですが、こちら側左岸は元々堤防が無いので水源地を守るための築提かと思われます。
正面に見えるのが保育園で、そこの土地をかすめて行くと言った感じだったのでしょうか。
私は中学生の頃この上組町界隈を新聞配達していたのですが、そのような話はもちろん、鉄道関係の遺構があるような記憶も無かったので、当時の地図でも無い限り軌跡の特定はむずかしいだろうと思っていました。
しかし、この前の早瀬川橋梁の事もあって国土交通省の国土画像情報(カラー空中写真)をなにげに眺めていたら、何やら見えてくるではないですか ! 駅から急に北にカーブして早瀬川の堤防の幾分内側に沿って通る軌道跡が。
軌道跡をなぞってみました。
殆ど宅地化しているのでミクロな視点では気づかないわけです。東側の方は一部道路化されていた様ですが、近年の区画整理でその道もすっかり断ち切られています。
駅の北側の道路と駅の間にある銭湯亀の湯。道路とは斜めに立地しているのがなんともあやしい。道路を挟んで反対側にあるクリーニング店。やはり斜めに立地している上にこの狭さはさらにあやしい。
このクリーニング店(北川クリーニングさん)に聞いてみた所、ここに引っ越してきたのは10年ほど前だそうですがここを軽便鉄道が通っていた事は御存じでした。やはり !
さらに進んで上早瀬橋の近く。右側は森林管理署の敷地で石積みの上が軌道跡と思われます。もちろんこの石積みは後補のものでしょうが、奥に向かって(遠野駅側)ゆるやかにカーブしています。
手前を見ると川面に橋脚跡が顔を出しています。
確認出来る橋脚跡はこれだけで、あやしい枯れ草の盛り上がりも一ヶ所ありましたが掘ってみるのは諦めました(汗。
次に青笹側の橋台跡。けっこう良い状態で残っています。
築提に登ってみました。向うのカーブの所まで軽鉄時代の築提が残っています。
すると事務所内にやはり創業当時という写真が。
現在は煙突としては使われていないそうですが、看板としては機能している様です。煉瓦製のためでしょうか、四角断面で現在は四隅に鉄骨の補強が入っています。
さて、基部を見てみると煙の入る穴が空いています。穴が空いていれば覗いてみたくなるのが人情というもの(笑。
これはイギリス積みというやつでしょうか。建物に覆われていた部分の境目もなんとなく見て取れます。
さすがに瓦屋さん、蔵も煉瓦製です。こちらはフランス積み ?
そろそろバイクも引っ張り出さないとネ。
二本目の隧道はちょうど田瀬大橋の袂を通り抜けています。下流側の方の坑門部分に近付きやすそうだったので行ってみました。
車道から暫く降りていくと見えてきました。
雪で埋もれているようにも見えますが、土砂であらかた埋まっているようです。石組の坑門の左側も崩れています。坑門のすぐ手前左側から沢水が流入しているのでこのためかと思われます。
しかしなにやら扁額らしきものが見えます。もうすこし近付いてみました。
扁額には「盡身致心」の文字。はて、どんな意味でしょう。その横には「大正九年十一月通水」、さらにその横は「會社理事」とあり、さらに続きますがちょっと読み取れませんでした。
Rv20ではCバスなmidiインターフェイスで2台ともmidi接続してましたが、Winマシンをリプレースしてどうしようか考えてました。
USBなmidiインターフェイスを買えば話は早いのですが、手持ちでどうにかならないかと。
とりあえず1台はシリアル接続出来ますがもう1台はどうしよう、1台だけでがまんするか、とそこでゲームポートに接続するmidiケーブルを昔買っていた事を思い出しました。
物置を探すこと数時間。やっと捜し当てVibraのゲームポートに繋ぎ、無事接続完了。
聴くのはやっぱりTMIDI Player。
これですと音源を2台繋いでもmidiデータによって自動で切替えられるので重宝です。
でもやっぱりUSBなmidiインターフェイスを買った方がすっきりしていいだろうなあ。
しかし、エレキギター方面で両社の様々な製品に触れた身としては、midi音源モジュールの音のキャラクターの違いもそのまま当て嵌まるのが面白いです。
YMAHAの音の癖、Roland(Boss)の音の癖ってあるんですよね。
~/.uimにある、全角スペースは使わない設定は最近バージョンが変わったためこのままでは効かないようで、
と、(require-module "anthy") を入れると良いようです。;; 全角スペースは使わない (require-module "anthy") (define ja-direct-rule (append '( (" " " ") ) ja-direct-rule))
で、emacsではTamago4経由で使います。いままでFree-wnnでもtamagoを使っていたので、キーバインド等も変わりなしに使えます。
~/.emacsに
とします。;; Anthy (Tamago4) ((file-readable-p "/usr/local/share/emacs/21.3/site-lisp/egg/egg/anthy.el") (setq default-input-method "japanese-egg-anthy"))
他にも問題があるようです。そこにある自家製egg-anthyを使います。
tamagoが入っていればコピーしてbyte-compileすれば良いようですが、せっかくなのでportsで一からインストールする方法。
まずは/usr/ports/editors/tamagoに移りmake extractします。するとwork以下に一式が展開されます。同名のファイルに自家製egg-anthyの物をコピー。
その後に
です。portupgrade -fw tamago-emacs21
使ってみるとcannadicを使ってるだけあって、変換の仕方など最初のうちはcannaを思い出しますが、なかなか賢いようです。
上米内から米内川と山田線にそって東に進みます。
大志田駅の少し手前にありました。
この上には山田線が通ってます。とすると暗渠の様ではありますが、脇に林道の標柱(文字は剥がれていて判読不能)も立っていますし、この奥は沢で勿論水も流れていますがそれは少し脇の暗渠から流れ出ています。
という事はやはり林道の隧道という事になるのでしょう。
反対側の様子。楕円形の断面形状ですがこの大きさでは軽トラが通るのがせいぜいです。
さて、大志田駅の下を通り過ぎて少し行くともう一つありました。
さきほどよりは立派な作りに見えますが高さも無いし水も流れているので、こちらは正しく暗渠なのでしょう。入ってみると素掘部分と覆工された部分とがあります。
中ほどで振り返ります。暗渠とは言え舘沢に通じる通路になっている様です。
大志田駅の様子。たまたま初めて来た時は「こんな所になんで駅が」と思ったものです。正しく秘境駅です。
オマケ。
返り道、市道の対岸に山田線に沿って桟橋があるのを発見。
コンクリート製のけっこう立派なものですが、現在は使われていない様です。
航空写真を見ると対岸に一軒住宅があった様で、そこへの道だったのでしょう。
赤柴川が橋野川にそそぐあたりから少し下流の橋を渡り、暫く橋野川沿いに合流点に向かいます。合流点のカーブを曲がると廃止の看板とゲートが現れますが、御覧の通り脇があまい(笑。
少し行くとさっそくナチュラル車高制限が現れます。更に行くと廃止の理由になったと思われる大岩が現れます。
大岩が迫ってますがかろうじて車一台なら通れそうです。実際この廃止区間の中間あたりに下流にある発電所の取水口があるので、その管理のために車両が通っているようです。
その近辺の'92年当時の様子。この大岩がもともとヤバい位置にあったのがわかります。この大岩以外に廃止区間で目立った破綻は見られなかったのですが、やはりこれは撤去にも苦労しそうです。
この元市道の代わりの道路が青ノ木から和山牧場にかけて出来ています。この元市道は平成12年以前から通行止になっていたと思いますが、代替道路が出来て晴れて(?)廃止となったのでしょう。
上部軌道が有ったと思われる方を見ると、山腹に平場とその下に石組らしき物が有る様です。
500mレベル坑口の脇にも、坑口や国道とは関係ないと思われる石組が見えます。
これらは上部軌道と下部軌道を繋ぐインクラインの遺構なのか?